プロフィール

 渡辺みつるプロフィール(有珠の沢町6丁目7-19在住)

  • 1953年(昭28)稚内市で生まれる
  • 1972年    道立当別高校卒
  • 1976年    昼間は東京都新宿区にあるオーバル機器工業(株)に勤務し、夜は工学院大学Ⅱ部電気工学部に通学し、4年間で無事卒業
  • 1976年    勤医協に入職27年前に勤医協苫小牧病院総務課長として赴任余市・札幌など2病院2診療所で15年間勤務(その間、勤医労本部専従を経験)
  • 1991年    苫小牧市議会議員初当選(現在7期目)

 議会・社会活動(現在も含め)の略歴

  • 厚生常任委員会正・副委員長、農業委員会委員2期、港管理組合議会議員2期、一般会計、企業会計予算・決算特別委員会委員長、議会運営委員理事18年間、党市議団長12年間など歴任
  • 現在、党苫小牧地区委員会副委員長、党市議団副代表、党地区政策委員長、市議会建設常任委員会委員、総合開発特別委員会委員
  • 有珠の沢町内会顧問、岩手県人会苫小牧支部副会長、勤医協苫小牧社員支部運営委員、友好都市・秦皇島市友好の会副会長、苫小牧原水爆禁止協議会副理事長、苫小牧市監査委員、一般社団法人日胆勤医協在宅副代表など

いつも笑顔で、頑張れるのはどうして?

渡辺みつる議員の生い立ち

 私は昭和28年に稚内(沼川町)で生まれました。
 5人姉兄弟の下から2番目です。父は戦前、樺太大泊で洋服店を経営していましたが、戦後は稚内に引き揚げて洋服の仕立人をして、その後開発局の職員になって余市町豊浜に住みましたが、私が4歳のときに急死しました。

女手一つで

 突然の父の死はその後の母の人生を大きく変えました。生まれたばかりの弟と私は親戚に預けられ、私は王子製紙に努める伯父さんの家でした。私にとって苫小牧のご縁はここから始まりました。
 しかし、母と離れて暮らすことは半年も持ちませんでした。毎日泣いて伯父たちを困らせたようです。結局、母や姉兄のいる石狩当別町に移り住みました。引っ越しした所は水道のない引き揚げ住宅で、小学校の頃から「井戸の水くみ」が私の仕事でした。母は公務員の独身寮の賄い婦の仕事で生計をたて、女手ひとつで私たちを育ててくれました。

母から聞かされた戦争の話

 母は私たちが小さいころ、良く戦争の事を聞かせくれました。母の妹は樺太からの引揚げ船「小笠原丸」に乗っていましたが、留萌沖でソ連の潜水艦に撃沈され、帰らぬ人となりました。「戦争は私の大事な妹を奪った」と、戦争の悲惨さを語ってくれたことを忘れずに平和運動に参加しました。
 さらに私が勤医協に就職して「無差別・平等の医療」「いのちの大切さ」を学び、憲法9条を守り戦争をしない国づくり、核兵器の廃絶運動など平和運動を続けていることも、きっと母から聞いていた戦争の話しが原点にあると思います。

左利きのグローブは高くて サッカーとの出会い!

 そんな私も、小学校高学年の頃は少し悩みました。
 「野球をやろう」と友達から誘われてもグローブがありません。
もちろん買ってもらえる経済力がないことを、子ども心に判っていただけに口には出せませんでした。
 何より私は生まれつき「左利き」だったので、当時は左ききのグローブは特注で値段が高く手に入らなかったので、好きだった野球は選択しませんでした。その代わりにボールひとつで楽しめるサッカーと出会い、中学校から社会人まで14年間通し続けました。
 我慢と忍耐力はこのときつくられたのでしょう。多くの方から、「左利きは器用なんだって…」との一言が、私の将来の夢に大きな影響を与え、「エンジニアになる」ことを目指しました。

夜間の大学を卒業して

 札幌の工業高校に行きたかったのですが、家庭の事情もあり自宅前にある普通高校に進学。卒業のとき、就職の条件に夜間大学へ通わせてくれる会社を選択し、夜間でも4年間で卒業できる工学院大学Ⅱ部電気工学科に入学しました。
 何とか4年間で卒業し、「学士」の卒業証書をもらいましたが、「本当に電気科卒業したの?何を勉強してきたの」と言われます。それもそのはず、大学生活は学費値上げ反対で学生運動に夢中になり、「技術よりも話術が好き」になり、すっかりとりこになりました。

20歳で日本共産党へ

 そのとき出会った先輩から、「戦前から『非国民』と言われ、戦争に一貫して反対する政党が日本共産党だった」ことを聞いて、それまでの私の人生を変える転換期を迎え、選挙権を得た20歳で入党しました。
 卒業後はそのまま働いていた会社(東京都新宿区上落合)に残る決意でいましたが、兄の紹介もあって畑違いの社団法人北海道勤労者医療協会に就職しました。卒論を担当した教授から、「電気工学と医療はどう結びつくのか」と驚かれました。
 余市診療所、もみじ台内科診療所、総合病院札幌病院、苫小牧病院と15年間の勤医協での仕事で、「常に患者さんの立場に立ったよい医療を」をめざすという医療人としての姿勢と、「患者とともに(社会保障の充実のために)たたかう」という社会運動を学びました。

温もりのある100円玉のおばあちゃんとの出会い

 私の「政治の原点」は、28歳のときです。勤医協もみじ台内科診療所(札幌市)で働いていたとき、国民の反対を押し切って老人医療費が無料から有料(月400円)になりました。
 「世話になっている息子には病院代のことを話すのが心苦しい」と、孫の貯金箱から400円を借りて受診した一人のおばあちゃんとの出会いです。当時、診療所の受付をしていた時、差し出された100円玉4枚には、しっかり握りしめていた“温もり”が残っていました。
 「財布のなかを見なければ病院にかかれないような社会はおかしい」と弱い者いじめの政治に対し怒りと関心を持ちました。

身近な相談者 議員として24年間

 今から25年前のことですが、石川孝雄元市議から「市議会議員に挑戦してほしい」との要請をうけ、悩みぬいて決断しました。6期24年間、いつもみなさんに支えられて頑張ってきました。
 父が亡くなった4歳の時の苫小牧との出会いから37年。いまは市議としてまちづくりに参加しています。きっとご縁があったのでしょう。今後もみなさんと一緒に、貧困と格差社会のない福祉一番のまちづくりをすすめます。
 すでに24年間の議員生活のなかで受けた生活相談は7.000件を超えています。「困ったことがあったら遠慮なく声をかけてください」、みなさんの願いを届ける架け橋として頑張り続けます。

突然の母の病気、そして他界! 介護の苦労を体験

 6年前の春、元気にデイサービスに通所していた母(当時91歳)が突然倒れました。
 市立病院の救急医療で一命は保たれたものの、回復病棟でリハビリに励みましたが6ヶ月間で医療行為は終わり、介護施設に移りました。
 2年半に及ぶ闘病生活と懸命な介護を受けながらも、享年95歳で他界しました。最期を見届けられたことがせめてもの親孝行だと思います。
 母の医療・介護の実態を体験し、介護労働者・利用者の苦労を目の当たりにし、医療・介護の改善の必要性を学びました。
 生前、母は良く私に言っていた言葉があります。「近い将来、貧乏人も報われ、孫たちも含め2度と戦争を繰り返さない社会を…」と遺言のように私に託して逝きました。

期待に応える議員活動を

 2015年4月の市議選で、多くのみなさんの力を得て連続7期目の当選を果たすことが出来ました。定数2減のなか、新旧交代もあり新人1人を含む4人全員当選で議会では第4会派となりました。
 安全・安心な福祉一番のまちづくりをめざして頑張る決意です。